北海道の原点
1869年(明治2年) 5月11日
場所は一本木関門(現在でいう函館駅の近く)
馬上で指揮を執っていた土方歳三は
茂みに潜んでいた薩摩兵の凶弾によって討死
場所は一本木関門(現在でいう函館駅の近く)
馬上で指揮を執っていた土方歳三は
茂みに潜んでいた薩摩兵の凶弾によって討死

《入植の始まり》
同年7月8日には新政府が北海道開拓使を設置
9月に入ると開拓使は東京府へ委託する形で移民の募集を開始
ただし入植地として与えられたのは宗谷そして根室など遠方の僻地
慣れない気候もあり病に倒れる者と死者が続出
ただし入植地として与えられたのは宗谷そして根室など遠方の僻地
慣れない気候もあり病に倒れる者と死者が続出
そのような状況から
札幌・小樽など西部ヘの転住または東京ヘ送還されることとなりました
札幌・小樽など西部ヘの転住または東京ヘ送還されることとなりました
1871年(明治4年)6月
菓子屋と漁業に就かせていたた15名のみが最終的に残留
こうして最初の殖民は失敗に終わります
菓子屋と漁業に就かせていたた15名のみが最終的に残留
こうして最初の殖民は失敗に終わります
さかのぼること1869年(明治2年)12月
二度目の移民募集が行われ
二度目の移民募集が行われ
翌年4月から5月にかけて旧酒田県(山形県の日本海側全域)より
一ノ村(のちの苗穂村)へ36戸120名
二ノ村(のちの丘珠村)へ30戸88名
三ノ村(のちの円山村)へ30戸90名
一ノ村(のちの苗穂村)へ36戸120名
二ノ村(のちの丘珠村)へ30戸88名
三ノ村(のちの円山村)へ30戸90名
旧 柏崎県(新潟県の日本海側中央)より
札幌村へ22戸96名
以上が入植し土着しています
札幌村へ22戸96名
以上が入植し土着しています

《入植者の出身地と世帯数》
(明治2年~昭和10年)
(明治2年~昭和10年)
①青森県/68,855戸
②秋田県/64,067戸
③新潟県/61,636戸
④宮城県/51,831戸
⑤富山県/48,445戸
⑥石川県/47,901戸
⑦岩手県/40,318戸
⑧山形県/39,009戸
⑨福島県/33,122戸
⑩福井県/27,392戸
②秋田県/64,067戸
③新潟県/61,636戸
④宮城県/51,831戸
⑤富山県/48,445戸
⑥石川県/47,901戸
⑦岩手県/40,318戸
⑧山形県/39,009戸
⑨福島県/33,122戸
⑩福井県/27,392戸
上記でおよそ七割
生活文化と北海道弁の語源を含めた道民の基本です
生活文化と北海道弁の語源を含めた道民の基本です
ちなみに帯広市を中心とする十勝地方
入植者の過半数を占めるのが富山県と岐阜県
入植者の過半数を占めるのが富山県と岐阜県

以下にある残り3割中の2割ともなると
北海道のイメージより
かけ離れた存在となってゆきます
北海道のイメージより
かけ離れた存在となってゆきます
11~20位
東京府/21,862戸
徳島県/17,970戸
岐阜県/15,297戸
香川県/14,367戸
広島県/10,777戸
愛知県/9,377戸
愛媛県/9,239戸
兵庫県/9,047戸
鳥取県/7,665戸
茨城県/6,950戸
東京府/21,862戸
徳島県/17,970戸
岐阜県/15,297戸
香川県/14,367戸
広島県/10,777戸
愛知県/9,377戸
愛媛県/9,239戸
兵庫県/9,047戸
鳥取県/7,665戸
茨城県/6,950戸

1882年(明治15年)2月8日
北海道開拓使が廃止
北海道開拓使が廃止
1888年(明治21年)12月14日
跡地に完成した北海道庁が業務を継承
跡地に完成した北海道庁が業務を継承
都市部での開拓は明治時代の末で終わりを告げ
やがて大正10年をピークに入植者数は激減
やがて大正10年をピークに入植者数は激減
しかし僻地や土壌が不利な地域においては
昭和20年代まで細々と続いていました
昭和20年代まで細々と続いていました

筆者の江戸っ子さん
とても簡潔にまとめられています
とても簡潔にまとめられています